第1時代~穂高見命(ホタカミノミコト)に由来する時代~
自然神。綿津見(わだつみ、海神)の神の人間としての嫡子、穂高見命、軍隊を連れて、焼岳脇の峠から、上高地明神に入る。<
俗名、穂高見命の、本名は、宇都志日金析命(ウツシイヒガナサクノミコト)。
まさに宇都は、宇都宮を連想させる。神武帝の叔父であり、海軍大臣、外務大臣。
倭(ワまたはヤマト)の貿易上の王であったのではないかと。 綿津見族の略称が、安曇族である。
綿津見族は、製鉄技術を持っていた様です。
穂高見命の最大の任務は、天皇族の1敵国で、
出雲族とも通じた、諏訪族、建御名方命の監視である。
そして娘、八坂刀売命(八坂姫)は、諏訪大社、下社の祭神となる様です。安曇野、川合神社社伝による。
従い諏訪下社は、海の神、上社は、戦の神となるのだろうか?
諏訪地方は古代の矢尻となる黒曜石の最大産地でした。
安曇族の主領地は、
筑前、長崎、隠岐、肥前、豊後、島根、瀬戸内海、淡路、阿波、滋賀、河内、三重、三河、美濃、信濃、更に東方各域、等の様。
安曇族は、神武天皇以前に別れた皇族への爵位、
連(むらじ)の姓(かばね)を持つ。
歴史上安曇族が、消滅するのは、平安時代以降。。
壬申の乱、中国大陸から見て日本列島を2分した大戦争。古来のヤマト(倭)の国と、今の日本の国との、菊の旗どうしの大戦争で勝った、天武天皇の亡き後、、
別の宮廷闘争が有り、既に亡き天智天皇の後ろ盾、中臣族などにより、神話が、書き換えられた疑いがありそうです。
かすかに、名残は、海神、雷神として。人名では、アズミ、アツミ、ワダ、ワタナベなどでしょう。
命が、稲の穂先が立つ鋭い峰々。穂高の山を愛した為、穂高見命と自ら、あだ名としたのが実情であろう。
陸続きとなる、本宮には、穂高見命の外、天照大神、ニニギ命等の神も大神として、主に祭られている。
上高地の明神地区は、特別に後まで神河内(かみこうち)と、言われ、
大正時代まで正式名の穂高岳、尊称が明神岳。明神岳の高い所に鋭く見えている峰々は、特に立て穂の山とも呼ばれていた。
第2時代~空白期~
おそらく松本市安曇村及び岐阜県など、近隣の人々が、勝手に木々、銘木を伐採、
又、狩猟生活していたことであろう。
第3時代~江戸時代、松本藩による、樹木の伐採出し~
元禄時代の元締文書には、常設きこり小屋として徳郷の小屋を中心に12個所、下より
田代、湯川、越後川、宮川、徳郷(トクゴウ)(明神)、徳佐(徳沢)古池、横尾、わさび野
わさび沢、熊倉沢、一の俣、二の俣があった。
杣には、入り4カ村、今の松本市安曇区全域から、松本藩のため、徳郷の小屋に集結、山々に入った。
上高地に入った約14人ほどの出張役人は、
徳郷の役人用宿泊小屋で数日過ごし、
与九郎の地(明神橋辺り)で、木々をあらため、
後、湯屋に移り、釜を木々が通過するのを確かめて帰った。
現在の明神橋あたりに、上高地唯一の橋、
与九郎大橋があった。善光寺街道の一部。
現在、これらの地名は、忘れ去られているが、
トクゴー(徳郷、徳吾、徳合、徳後)は、
今の明神館の地を中心とした、南北1キロj以上に及ぶ、かなり大きな平地である。
この地は上高地の中心なので建物も多くあったと思われる、
何軒も小屋があったはずなので、徳郷が、最も当時を知る名前として適格であると思う。
明神館の前身の徳郷の中でも、松本藩役人小屋は、1600年-1700年に創設されている。
与九郎の地は、明神館と明神橋の間の地のこと。
宮川とは、明神池付近の場所のこと。
明治に、キコリ小屋の一つ、宮川の小屋に住みついたのが、嘉門次です。
江戸時代終わりに、湯屋を旅館にし、上高地温泉が出来る。
明治時代初期に、メインのキコリ小屋、徳郷小屋を旅館にしたのが
安曇島々地区の大庄屋、西方、現在の松本市安曇支所下手付近に居た、奥原家です。
島々区には、真ん中の島々川をはさんで、東西2つに、大庄屋の流れが分裂されていたので、間違える方も多い。
基本的に、徳郷小屋及び、明神館の昔の持ち主は、土建業(金八)を営んでいた、上高地にかかわっていた西の奥原家、
奥原勇氏が最後となり、
歴史と共に、全ての権利は、血族で義理の子、安曇野有明山の下手から発祥していた、梨子田家に売り払われている。
徳郷小屋は、言うまでもなく、旅館、明神館の前身です。
「信府統記」等は、穂高岳とは、穂高明神の鎮座する山としている。
明神周辺を、神合地としているが、一般的には、下の村の上の位置の領分として、上口、上河内であり、
変形は、神河内、それ以外に無い。神河内の場所は、明神から明神池の間の事である。
穂高神社本宮から、奥宮参りも、江戸時代後期には、しばしば行われている。たぶん徳郷の小屋の一つに泊まったことでしょう。
第4時代 ~明治時代から。 材木伐採と牧場の時代そして登山の黎明期~
明治元年、徳沢のキコリ小屋の炊事夫、嘉門次、上條家の養子となる。
明治7年、上高地の木材伐採に係った「入り四ヶ村」合併により安曇村誕生
明治14年、ウィリアム・ガウランドが日本アルプスを命名した。
明治18年、上條百次朗(私の祖先の一人)上高地牧場開設、
最初の牧場としては、現在の上高地温泉付近を使ったもよう。
嘉門次、上高地牧場に上納することで、池で漁をすることとなる。
明治24年、ウォルター・ウェストン、旧島々村の旅館、清水屋の主人
と旧島々村橋場地区の案内人とで上高地へ入る。
明治26年、ウェストン穂高岳(現在の明神岳と前穂高岳の総称)登頂
宿泊地として、徳郷小屋に宿泊。案内人として、上高地牧場配下の嘉門次と上條万作を選ぶ。(ウェストン記録による)
嘉門次がたまたま、案内人の一人に選ばれた。
明治29年、ウェストン著書発表
このウェストンの発表によって、長い間、幕府に隠されていた、隠れ里であった、上高地が公となった。
小島烏水により、徳郷の小屋(明神館の旧名)、温泉宿(上高地温泉)、
宮川の小屋(嘉門次小屋の旧名)の三つが上高地にあったことが確認されている。
徳郷(現在の明神)の小屋には、放し飼いの牛馬を監督する男が住んでいたという。
明治31年、宮川の池(明神池)が長野県の社有地となり、翌年穂高神社に引き継がれる。
明治38年、日本山岳会発足。
明治43年、現在のような吊り橋として初代河童橋できる。
明治45年、養老館(五千尺ホテルの旧名)開業。
大正2年 陸軍陸尉測量部により。日本地図編算にて、 それまで、「峠」と言えば、上高地に入る道はこの峠以外に無く。
突然、徳本峠の名前が当てられた。
「徳本」の漢字の由来は上高地に関係無いようなので、官製の当て字である。。
徳郷へ到る峠なのでそうなった。
この地図には、現在の明神岳の位置が明らかに穂高岳であった。
その奥の方に、奥穂高岳が有った。
その他の穂高岳は、現在の位置とは、異なる。
奥穂高岳が、岐阜県から登る山であり、上高地の中心は、明神の場所で有ったことによる。
昭和初期 山岳名の大変更により
穂高岳の名称は、明神岳連峰群と前穂高岳連峰群に分割され、
菊の紋章にかぶり、怖れ多いことから、神の山、単純名の「穂高岳」の名称が消滅し「明神岳」となった。
大正4年、焼岳大爆発、出来た池を大正池と命名。
大正5年、山林局が上高地一帯を保護林に指定、
長く続いた材木伐採の歴史が幕を閉じていった。
大正12年、上高地温泉㈱が、徳本峠小屋を設立。
大正13年、徳郷に、吉城屋開業(8畳一間の平屋)
徳郷小屋の権利者、西の奥原家による、吉城屋明渡し裁判始まる。
昭和2年、芥川龍之介、小説、「河童」発表
昭和3年、上高地が国の名勝及び天然記念物に指定される。
昭和4年、徳沢園が牧場の小屋として始まる。
(大正時代の地図によると真ん中を流れた徳沢は、かなり深い川で有ったが、 地盤が安定して、徳沢園前の牧場の跡地は、現在、広大なキャンプ場となっている。)
昭和8年、上高地へバス乗入れ、帝国ホテル開業、
昭和8年、徳郷小屋の権利者により、明神館の開設。
昭和9年、上高地が中部山岳国立公園に指定される。
同時、長い間続いた上高地牧場が、終わる。
昭和10年、河童橋までバス乗り入れ開始。
昭和23年、岐阜県平湯までバス乗り入れ開始。
昭和27年、奥原 勇、梨子田 昇に,明神館及び上高地の権利の全てを売り渡す。
義姉の新村つとふ(伝)が、戦前より、支配人をしていた為、
勇氏は、家業の土建業に専念していたが、この機会に、新村つとふの子、昇に売り渡しを願い出たためである。
昭和27年、特別名勝及び特別天然記念物に指定される。
昭和28年、上高地の主官庁が、林野庁から厚生省へ所管替え
田代橋から小梨平までは、集団施設地区として、及び徳沢地区は、
これにより、厚生省、後には環境省の土地へと変貌する。
明神、明神池地区は、
古来、木材と関連が深かったのか林野庁の土地のまま。
第5時代 ~三つの顔の上高地~
大衆登山基地としての上高地、
大自然の中の保養地としての上高地、
大観光地としての上高地。
昭和30年代を過ぎると、奈川渡ダムの建設等、バス道が整備される。
昭和31年、30年1月2日の実在のナイロンザイル事件を材料に、井上靖、小説「氷壁」
昭和40年、上高地バスターミナル完成
昭和42年、第一回上高地開山祭。
昭和40年代、中の瀬、及び徳郷(白沢の渡、明神)のキャンプ廃止。
昭和50年、上高地、岩魚全面禁猟となる。
昭和30年代までは、登山といっても今と全く比べ物にならない。
まず、横長のキスリング(ザック)。
ほとんどは、徳本峠を越えた。バスで来ても、歩いてきても、
時間には、変わりが無かった為であろう。
高村光太郎と智恵子、芥川龍之介等など、文化人も徳本峠を越えた。
そして、入山者数は、比べ様も無くはるかに少ない。
今、上高地と言えば、河童橋と、大正池しかない、という時代となった。
平成10年、中部縦貫道の一環として、安房トンネルがあいた。
今後は、どのような展開になるのでしょうか。